2006年06月14日

いりあい交流in中津川(山形県飯豊町)3日目



中津川 第3日目
地域づくりの今とこれから


中津川(山形県飯豊町)での最終日、まずは「山形県のそば名人」のご指導による蕎麦打ち体験から始まり、美味しい蕎麦を堪能した後、緑のふるさと公社常務取締役・源流の森インタープリターの安部弘さんからお話しを聞きました。安部さんはこの村の若手リーダー。森林を活用した産業をおこし、人々がこの地域で元気に生きていけるために、どんなことをしようとしているのか。安部さんのお話しとともに、インドネシアの仲間たちからも、たくさんの質問が出されました。

そばうち(ウェブ).JPG


そばを食べる(ウェブ).JPG


安部さんのお話(ウェブ).JPG


安部さん(ウェブ).JPG


中津川財産区についてのお話しは、同行した家中茂さん(鳥取大学)がまとめて下さいました。
(以下、家中さんの報告抜粋です)

安部弘さんからうかがったことや‘たこじい’こと織田洋典さんのお話、そして、いただいた充実した資料をもとに、概略をお話します。

中津川財産区は日本でいちばん大きな財産区です。飯豊山を間近にのぞみ、見渡す限りの山々がすべて財産区で、そのまたの向こうの山も財産区。15才になると男の子は飯豊山に水垢離をして登る儀式をつたえる村もあるそうです。

この中津川に14の村がありました。ひとつの村あたりの戸数はそれほど多いとは思われません。平野部の農村との違いでしょう。今回はあんまり村をみて歩く時間はなかったのですが、水路や道沿いに転々と家があるところ(宇津沢)や、町のように比較的家が集まっているところ(岩倉)がありました。18世紀の資料では(文化10年1826年)、宇津沢17戸、岩倉43戸とあります。ひとつの村がこのくらいの戸数で形成されていたのです。

なだらかな印象の山々ですが、山間部ゆえ水田もおおくはなく、この点が、山々に囲まれた扇状地で水利の発達した石筵のような村とは大きく違うところでしょう。稲作だけでは生活を支えることはできず、山村の常として、昔から物資の出入りは多かったようです。それが、薪や炭、山菜であったりします。川をつかって、伐りだした木を下流に流していましたが、それは薪としてでした(用材のばあいも杉ではなくブナ)。

こうして山からとれる物で現金を得ていたこともあり、道路がついて、炭が外に運びやすくなると、山の木が伐られて一気に荒れ始めます。同時に、山が資産としての価値がついたうえ、村まで延びた道路をとおって町の人も来やすくなったので、山そのものを町の人に売ってしまうようなことも起きてきます。なにか、マレナの状況に似てますね。焼畑に、換金作物としてのカカオを植え始め、やがてそれが資産として価値が出てくると、町の人が土地を買っていくという状況が。

このままでは村が保たないことになるという、おそらく当時の指導者たちの判断から、山林をまず、中津川の村有地とすることにします。それが大正10年です。村有林にはするのですが、しかし、つぎのような「決定的な」施策を実施します。大正15年に「村有林管理条例及び規則」を制定し、用材林と薪炭林を区分したうえで、生活のための森として、1戸あたり山林3反歩、燃料林4町歩、採萱地などを割り当てることにしました。

この「燃料林」という理念が、実は、「木質ペレット」の生産という、この日の阿部さんの話題につながってきます。財産区の設置に至る経緯がなかなか奥深いのです。

明治の合併はしなかったものの(明治22年の町村制)、昭和に入って飯豊村との合併の話がもちあがりました(昭和28年の町村合併促進法)。飯豊村の方からは、合併するにあたって、つぎのような2つの条件が出されます。@中津川村有林の各戸に割り当てられていた燃料林を個人所有にすること、A村有林を合併後の飯豊町の管理委員会に移管させること。@は、個人所有にしたうえで課税し町の財政基盤にするためです。結局、中津川の方のねばりづよい交渉の末、この条件は反故にして合併します。そのときの議事録が『中津川村史』に掲載されていますが、それほど、村有林を設置したときの理念が重要であったかが推し量れます。

そもそも何故、4町歩の共有林が「燃料林」として家々に割り与えられたかというと、1戸あたり年間使用する薪は1反ほどなので、毎年そのくらいずつ山を順番に使っていると、30〜40年後には、元の雑木林に戻るからだそうです。伐採後はわらびなど山菜採り、15〜30年生の山林はキノコ採りや製炭材として、30〜40年生の山林は建材として利用できる。とくに20〜25年生の山林がもっとも生産性が高く、キノコや山菜が多く採れるそうです。

こうして、昭和33年、合併して飯豊町ができるとともに、土地台帳7841ha、実測見込み面積11368haという、中津川財産区が誕生します。

ところで、財産区制度がどういうものか知る必要がありますが、基本的に、自治体が管理者となるとおさえておけばよいでしょう。そのために、これまでどおり、入会的な山林利用は継続されるが(利用は合併以前の当該地区住民に限られ、課税もされない)、しかし、一方で、公的な財産となったために、山林経営からあがる収益は「公共の福祉」を目的とした事業以外には使うことはできなくなります。つまり、山林からあがる収益を住民に分配したり、あるいは、祭礼を執り行ったり、神社を修復する費用のためにあてることができなくなります。そもそも、営利事業を財産区自体がおこなうこともできません。これが財産区になった大きな変更点です。

ふつうの場合はこれで、財産区の説明はおわりです。しかし、中津川は違いました。「燃料林」制度を編み出したほどに、山林が人びとの生活の基盤として欠かせないことがつよく認識されていました。そこで、ここでも智恵を絞るのです。中津川では「共有林野組合」というのを、全戸加入でつくりました。そして、「共有林野組合」は、財産区の山林はもちろん、国有林も含めて、その保全につとめる役割を担うこととし、そのために、財産区林や国有林に山菜採りに入る人びとから1日あたり1000円の入山料をとることにします。(年間で、入山料収入を500万円ほどあげているそうです)。このようにして、財産区であれ、国有林であれ、元々は村や各集落のもとに管理、利用されていた山林から、集落の生活を支えるために必要な資金を引き出せるようにしました。山菜の直売所を始めるときなど、組合員である住民が事業をするときにも、共有林野組合から、貸付ではなくて、資金援助ができるようにしています。

中津川財産区の運営は、管理会方式によっています。財産区は、市町村議会とは別に、独自に議会(財産区議員を住民が選出して議会を構成)をもって運営する方式と、市町村議会の決議を承認する立場の管理会方式がありますが、中津川財産区ができるときに、すでに飯豊町内の他の財産区が管理会方式だったので、それにならうことになりました(飯豊町内にはすべてで5つの財産区があります)。その管理会の委員会は、各集落の代表と公民館長、そして村づくり協議会会長によって構成されています(7人の委員と3人の参与)。

さて、この「村づくり協議会」とは何でしょう。ここでも、中津川の独自性をみることができます。いまの「源流の森」は、実はダム湖を中心とした一帯です。白川ダムに沈んだ農地は、中津川でももっとも肥沃といわれた田でした。そのため白川ダムの建設計画に対しては、住民の反対運動がおこりました。しかし、大水害がおこって(羽越水害)、この田が土砂に埋まってしまい、復旧もできないほどになってしまったのです。この大水害を機に、反対運動は収束して、移転がなされることになります(集団移転ではなくて、個々に親戚などを頼っての移転だったそうです)。こうして移転補償がなされて、ダムが建設されるのですが、一方、ダムに家や田畑が沈まずに、村に残った人たちも当然います。この山に残った人たちが、1971年に、「白川上流再開発協議会」を発足させます。これがもとになって、1985年に「村づくり協議会」ができます。ダムによって沈む家での移転補償というのはありますが、山に残った人たちに対する施策が実施されるというのはこれが初めてだそうです。中津川地区全戸の参加を原則とし、1世帯当たり3000円の会費(169世帯)と町からの補助で運営されています。

このような取り組みの延長上に、現在、[木質ペレット]の事業化が取り組まれています。かつて、住民の生活基盤を支えるために各戸あたり4町歩ずつ割り当てられた「燃料林」も、いまでは活用されずにいます。昭和20〜30年代には、年間7万〜10万俵の炭が出荷されていたそうですが、そのくらい山から収益を得ることができた、ということです。「木質ペレット」の事業化は、そういうかつての山を取り戻そうという構想であり、そのことによって山と共に生きてきた中津川の歴史を未来に向かって開いていこうという取り組みだということができます。
posted by あいあいネット at 00:54 | 東京 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | いりあい交流 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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