2006年06月14日

いりあい交流 in 中津川(山形県飯豊町)



中津川 第1日目
源流の森を歩き、森の名人「たこじい」のお話しを聞く


「あいあいネット」事務局の長畑です。「いりあい交流2006 in Japan」二つめのフィールド訪問は、山形県飯豊町。前の日に郡山を出て会津坂下町で一泊した一行は、バスで福島・山形県境を越えて飯豊町に入りました。目指すは同町の中津川郷。山形県の南端、飯豊連峰の北東麓に位置しています。地区の人口は約150世帯。地区内の広大な山林のうち、約11,000haは、「財産区」という形で、今も中津川に暮らす方々自身によって管理されています。
中津川は、大正時代、急速に興隆した製炭業などのため、山林の伐採が進んだといいます。そのとき、5年の歳月をかけて住民の総意で策定されたのが、詳細にわたる村有林管理計画。以来、現在にいたるまで、時代は変われども、中津川の森林経営には「森の保全」と「住民全員の福祉」の両立をめざす伝統が息づいています。中津川では、持続的な森づくりと地域づくりをめざした経験と取り組みに学び、交流することを目指しています。

最初に訪れたのは、中津川地区内に山形県が開設した「源流の森センター」。山村及び森林の今後の展望と新たに取り組むべき課題を提起するとともに、”森林(もり)の中で憩い、学び、遊び、鍛えることのできる21世紀の森林理想郷づくり”をめざして作られた施設です。

ここでまずお会いしたのは、「森の名人」である織田洋典さん。「たこじい」の愛称で親しまれている織田さんは、1997年源流の森のオープンと同時に、源流の森のインタープリターとして活躍。ふるさと中津川のために、村の歴史の掘り起こし、森林文化の伝承などに邁進されています。
たこじい(ウェブ).JPG


午後は源流の森を一緒に歩き、夜にお話しをお聞きしました。織田さんのお話は、中津川の歴史から始まりました。江戸時代の「中津川14村」から明治になって中津川村となった頃までの村の人たちの暮らし。部落所有の山林は共同の財産とされ、薪炭、採草、植林、放牧まで、人々の暮らしに密着したものだったこと。しかし水田は充分になく、食べていけるだけのお米はとれなかった。そのため、最低限の暮らしを成り立たせるための産物として、山菜や炭があった。中津川には60年前まで車が入れる道路はなく、昔は背負って運べるものだけが産物だった。そして炭焼きが大々的に広がった。

その結果として、山が荒れてしまった。食べるために炭を生産し、そのために伐採が進んだ。一部の部落では立木を売るだけでなく、土地を売却するところまでいった。そしてこのことに危機感をもった当時のリーダーが、個々の部落有林を中津川の村有林に統合し、厳正な管理制度を定め、山林の保護とその利用を統制して、村民のために有効な方策を講ずべきではないか、と問いかけ、約11,000ヘクタールの村有林が生まれた。それが昭和の合併で飯豊町となった時に「財産区」となり、今に至っている。

私がいまの中津川を見て最も素晴らしいと思うのは、この「財産区」だ。村有林が生まれた時から、住民1世帯あたり4町歩の山を貸し与えていた。これは毎年1反ずつ薪炭などのために木を切っていっても、40年のサイクルで森林が元にもどる、という考え。山を山として維持する先人の知恵がある。

後に続く世代の人たちにぜひ守ってほしいのは、暮らしを維持しながら山を守っていくこと。それと、この村には草木塔が21もある。これも素晴らしいことだ。

そしてもう一つ。この村では先の戦争で若い人が111人も亡くなった(その多くはニューギニア戦線だった)。戦争ではまた、アジアの皆さんにも多大なご迷惑をおかけした。111人の若い人たちが、もしこの村に居てくれたら、この村のあり方も大きく変わっていたはず。そう考えると、平和の尊さと戦争の愚かさを強く感じる。

<中津川2日目に続く>
posted by あいあいネット at 00:33 | 東京 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | いりあい交流 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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